塀について考えてみた

「京都」と聞いて何を思い浮かべるか?
宗教都市、学生の街、伝統工芸、いくつも思い浮かぶが、京都で生まれ育った私は、まず最初に「宗教都市」が思い浮かぶ。
狭い市街地、そして山間部にお寺が立ち並んでいる。
そこに見えるのは寺を囲む「塀」あるいは「石垣」である。
塀、石垣は俗世界と聖域を区別する境界線でもある。

そして、俗世界と聖域を区別するための重要なモノでもあるのだ。
鎌倉時代を終わらせた立役者である足利尊氏が同じく立役者の新田義貞に攻められた時、東寺の東門から境内に逃げ込み難を逃れた、という逸話がある。
以来、この門は現代まで開けられた事がなく、不開門(あかずもん)と呼ばれている。
寺の境内は聖域なので、何人であれ、境内で争う事は許されないのだ。
(しかし、室町時代になるとこの秩序も失われていく)
塀イコール聖域という秩序が失われると、今度は自衛のための塀が必要になってくる。

しかし、塀では不安なので、石垣を積むという形になった。

現在あるお寺を囲む石垣は、自衛のためであったと言える。

しかし、塀も石垣もないお寺がある。
嵯峨にある常寂光寺だ。
京都市内では唯一と言っていい。
京都周辺を見ても滋賀県大津市比叡山延暦寺と二ケ寺のみ。
全国を見て回ったわけではないので絶対だと言えないが、

全国的に見ても塀(石垣)がないお寺はほぼないのではないかと思われる。
(ただし、無住のお寺、廃寺はその限りではない)

さきほども書いたが、そもそも、塀というのは境界線でもある。

しかし、常寂光寺と延暦寺には塀がない。
延暦寺は、山全体が境内(聖域)とされているため、塀で囲む必要がなかった。
それほど昔の人たちは、比叡山イコール犯さざる聖域だと信じていたのだ。

(今はホテルや観光施設などが立ち並んでいるが)
紛争で身の危険を感じた天皇や貴族は、比叡山に逃れたという歴史がそれを証明している。

しかし、常寂光寺は違う。
比叡山ほど広い境内ではないし
比叡山ほど世間から重要視とされているわけでもない。
元々は(日蓮宗本圀寺住職だった日禛上人が豊臣秀吉の命に背いたために嵯峨野小倉山の地に隠棲したのが始まりとされ、本格的に寺として整備されてからも塀を建てなかった。
なぜ塀を建てなかったのか?は今はもう想像するしかないのだ。
守るべきものは何もない、という意思表示だと受け取れるし、逃げも隠れもしないという意思表示にも思える。
現代社会においても尚、変わらない姿でいられるのはある意味奇跡かもしれない。