「京都」に影響を与えた人物  その1

京生まれ京育ちの私が、まず何をおいても一番に挙げたい人は

秦河勝(はたのかわかつ)」 です。

古代、大陸から渡来してきた一族で、秦氏の中でも一番知られているのが、秦河勝です。
秦氏一族は3世紀から4世紀に日本に渡ってきたと言われています。

始皇帝の末裔と称していたと言われますが、本当なのかどうか?は誰にもわからないし、今となっては、全くどうでもいい事ではあります。
ヤマト政権成立後、葛城氏の支援を受け、山背国に本拠を置く。

秦酒公(さけのきみ)、秦大津父(おおつち)など、有力者が出たが、その後に出た秦河勝は一番の功績を残していると言えるでしょう。

桂川右岸の地に、松尾大社(酒の神様)を
そして、鴨川左岸の地に、伏見稲荷大社(商売の神様)を創建したと伝わります。

両神社、ともに京都最古級の神社です)

他にも木嶋坐天照御魂神社(通称、このしま神社、蚕ノ社かいこのやしろ)を創建した(三つ柱の鳥居が有名)と伝わります。

神社だけでなく、聖徳太子が建立した蜂岡寺(現在の広隆寺の経済的な援助も川勝の功績です。
ひょっとしたら、広隆寺に安置されている仏像の多くも秦氏一族が大陸から持ち込んできた物ではないか?
(仏像に使われている木材が日本にはなかった木材が使われている)

或いは、彫刻師も大陸から一緒に渡って来たんじゃないかと勝手に想像したりします。
他にも、養蚕、機織りの技術や桂川の堤防を築く土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草などの知識や技術などを生かして街創りをし、財力を蓄え、天皇や皇族を支え、日本の発展のために貢献しました。
古代、山背(山城)国を造った中心人物といってもいいでしょう。
その秦氏一族は、全国に散らばり、各々の地で活躍したと伝わっています。

地名に「秦」という文字や「太秦」という文字がついている所は、秦氏が居た可能性が高いと思われます。

戦国武将の中でも、土佐の長曾我部氏や薩摩の島津氏などが秦氏の子孫と称していますし、江戸時代、赤穂事件で有名な赤穂浪士大石内蔵助なども秦氏の子孫と称していたり、現代でも元首相の羽田孜氏、麻生太郎氏の家系も秦氏の子孫と称しています。