「京都」に影響力が強かった人物  その2

桓武天皇
いわずと知れた、平安京を造った天皇
彼が天皇になれたのはある意味奇跡でした。
彼は、普通なら絶対に天皇になれない人でした。
父(白壁王)は、天智天皇の第七王子。

父が第七王子ですからこの時点で天皇になれる可能性はぐっと低いと言えます。

当時、主流の血筋は天武天皇系で、天智天皇系の血筋は非主流系でした。

しかも、もし父が天皇になれたとしても、山部王(桓武天皇の母は出自が低く(この時代、母の実家の格が重要だった)皇太子になれない可能性が高かったのです。
しかし、主流系だった天武天皇の血脈が途切れたため、思わぬタイミングで彼の父、白壁王(後の光仁天皇が62歳で即位しました。
この時点で、皇位継承出来る人が山部王(後の桓武天皇しか居なかったため、皇太子に任命され、皇位継承出来たのです。
45歳で即位した桓武は、誰にも邪魔されずに、自分が目指す理想的な政治がしたかったのでしょう。
すぐに平城京を捨て、山背国の西部に遷都し、長岡京と名付けます。
しかし、造営の責任者、藤原種継が暗殺された事がきっかけで、弟であり、皇太子であった早良親王を死に追いやる事になります。
その後、実母、正室が相次いで死去。
息子で皇太子にした安殿親王(後の平城天皇)も重い病気にかかり、生死の間をさまようなど近親者に不幸が出、都でも水害や疫病が流行したため、長岡京を捨たと言われますが、本当の理由は、やはり早良親王の祟りを恐れたためだと思われます。北東に位置する山背(山城)盆地に遷都。平安京と名付けました。

この時、「都」の中で許可したお寺は二ケ寺だけ。

そして、血を穢れたモノと捉えた彼は自らの軍隊を放棄します。

以後、明治維新まで天皇家が軍隊を持つことはなくなりました。

平安京と名付けた「都」は、平安であった期間はそんなに長くはありませんでしたが、千年以上続いた「都」という事実が成功の証といえるのではないでしょうか。