平安時代の終わりに、「都」で花咲き、
源義仲(木曽義仲)。
田舎で育ったため無位無冠。
前半生はほとんど謎とされています。
以仁王の令旨に呼応し、
倶利伽羅峠の戦いで、少ない兵力で平氏の大軍を撃破し、
しかし、入京してからの義仲軍は、都の中で略奪行為、
(この年、京都は大飢饉の真っ最中だった)
そのため、都の人たちから嫌われた。
さらに皇位継承問題に関して口出しをした事
で、後白河法皇と対立が激化。
後白河法皇は、源頼朝に義仲討伐の院宣を出すに至る。
頼朝が派遣した源義経、範頼軍に追われ、
私が今まで知っていた一般的な義仲の略歴を書いてみました。
時の大勢力である平家を都から追い出した。
ここまでは良かったが、その後が冴えない人生だった。
今まではそう思っていました。
しかし、義仲の本当の凄さを知っていた偉人が沢山居たのです。
まず、俳聖、松尾芭蕉は、義仲の大ファンで
「さて骸は木曽塚に送るべし」
と弟子たちに遺言し、亡くなったというのは結構有名な話。
義仲のお墓の隣に芭蕉のお墓があるのは、
しかし、他にも義仲ファンが沢山居たのは知りませんでした。
まず、芭蕉の弟子、各務支考(かがみしこう)。
江戸時代の儒学者、木下順庵、その弟子筋になる新井白石も義仲擁護論者だし、
明治時代の信濃毎日新聞の山路愛山、京都帝国大学の歴史学者、
そして、作家の芥川龍之介は、18歳の時「義仲論」
かなり義仲を研究したようで、
同時代に源義経というヒーローが居たにも関わらず、
それを知りたいと思いました。
今まで義仲にはあまり興味が湧かず、
ライバルになったのは、祖父を同じくとした従兄弟の頼朝。
頼朝は嫡流の血筋になります。
14歳の時、父(義朝)が処刑され、頼朝も処刑されかけた所、
義仲は武蔵国に生まれるが(頼朝より7歳年下)わずか2歳の時、頼朝の兄、
義仲は畠山能重に助け出され、
共に打倒平氏で挙兵するまでの間の人生は謎とされている。
私は、この謎の月日をどう過ごしたか?
以仁王の令旨に呼応してまず動いたのは頼朝だったが、
少ない兵力で平氏の大軍を破ったのは大金星である。
その後、勢いに乗って平氏を追ったのでなく、
この時点で、義仲が政治のイロハを理解していた事がわかる。
ただ、入京する前後に略奪、
しかし、これは義仲軍本隊ではなく、
乱暴狼藉は、2、3日で鎮められた。
義仲軍が入京してすぐに後白河上皇に呼ばれ、
頼朝は鎌倉から一歩も出ず(
義仲はすぐに平氏追討を命ぜられますが、
後白河上皇の独裁を止めさせ(後白河上皇の譲位、以仁王の遺児、
頼朝も同じ事を考えていたようですが、頼朝は自分は動かず、
その辺が人気がない理由ではないかと思われます。
義仲の朝廷工作はなかなかうまくいかず、
義仲は、一旦は平氏追討に出陣しますが、馴れない海戦で大敗し、
そして、後白河上皇が居る法住寺焼き討ち事件になります。
この段階で義仲は逆賊と呼ばれる事になるのです。
しかし、よくよく調べると後白河上皇側がまもなく上京する頼朝(
焼き討ち後、実権を握った義仲は早速、朝廷改革に着手します。
が、
この戦いは賊軍となるため、ほとんどの兵は逃げてしまいました。
義仲についてきたのは10騎に満たなかったと言われます。
ここで悲劇の幕は閉じられるのですが、
なかなか気づかないと感じました。
後白河上皇の独裁、平氏の横暴、そして、
欲望と欲望が絡みついた世の中で「義」に生きようとした源義仲。
多くの偉人たちが擁護した気持ちがわかったような気がします。