木曽義仲(源義仲)の魅力に迫る

平安時代の終わりに、「都」で花咲き、すぐに散ったという人生を送った人物…
源義仲木曽義仲)。
田舎で育ったため無位無冠。
前半生はほとんど謎とされています。
以仁王の令旨に呼応し、打倒平氏を掲げて旗揚げしたのが27歳の時。
倶利伽羅峠の戦いで、少ない兵力で平氏の大軍を撃破し、無血で入京する。
しかし、入京してからの義仲軍は、都の中で略奪行為、乱暴狼藉を繰り返してしまう。
(この年、京都は大飢饉の真っ最中だった)
そのため、都の人たちから嫌われた。
さらに皇位継承問題に関して口出しをした事
で、後白河法皇と対立が激化。
後白河法皇は、源頼朝に義仲討伐の院宣を出すに至る。
頼朝が派遣した源義経、範頼軍に追われ、近江国粟津で最後を迎える。

私が今まで知っていた一般的な義仲の略歴を書いてみました。
時の大勢力である平家を都から追い出した。
ここまでは良かったが、その後が冴えない人生だった。
今まではそう思っていました。
しかし、義仲の本当の凄さを知っていた偉人が沢山居たのです。
まず、俳聖、松尾芭蕉は、義仲の大ファンで
「さて骸は木曽塚に送るべし」
と弟子たちに遺言し、亡くなったというのは結構有名な話。
義仲のお墓の隣に芭蕉のお墓があるのは、実際に義仲寺に行ったので私も知っていました。
しかし、他にも義仲ファンが沢山居たのは知りませんでした。
まず、芭蕉の弟子、各務支考(かがみしこう)。これは芭蕉に影響されたのだと想像出来ますね。
江戸時代の儒学者、木下順庵、その弟子筋になる新井白石も義仲擁護論者だし、加賀藩の学者、富田景周。
明治時代の信濃毎日新聞山路愛山京都帝国大学歴史学者三浦周行。
そして、作家の芥川龍之介は、18歳の時「義仲論」という義仲擁護の論文を書いているのです。
かなり義仲を研究したようで、三万字にも及ぶ大論文を書いています。
同時代に源義経というヒーローが居たにも関わらず、なぜ何処にそんな魅力を義仲に感じたのか?
それを知りたいと思いました。


今まで義仲にはあまり興味が湧かず、深く知ろうとは思わなかったのだが、イロイロ調べてみると、義仲は、どうやら源氏一族の長者争いに巻き込まれた人生だった。
ライバルになったのは、祖父を同じくとした従兄弟の頼朝。
頼朝は嫡流の血筋になります。
14歳の時、父(義朝)が処刑され、頼朝も処刑されかけた所、助命され伊豆へ流された。
義仲は武蔵国に生まれるが(頼朝より7歳年下)わずか2歳の時、頼朝の兄、源義平に父(義賢)を殺される。

義仲は畠山能重に助け出され、木曽の中原兼遠に育てられる事になる。
共に打倒平氏で挙兵するまでの間の人生は謎とされている。
私は、この謎の月日をどう過ごしたか?によって成功者となったか否かの大きな分岐点となったのではないかと考えた。

以仁王の令旨に呼応してまず動いたのは頼朝だったが、先に成果を上げたのは義仲だった。
少ない兵力で平氏の大軍を破ったのは大金星である。
その後、勢いに乗って平氏を追ったのでなく、延暦寺の勢力を見方につけた事によって、平氏は都から出ていかざるを得なくした。
この時点で、義仲が政治のイロハを理解していた事がわかる。
ただ、入京する前後に略奪、乱暴狼藉行為があったのは確かなようだ。
しかし、これは義仲軍本隊ではなく、同行していた源行家の軍の仕業だったようです。
乱暴狼藉は、2、3日で鎮められた。
義仲軍が入京してすぐに後白河上皇に呼ばれ、褒美が与えられますが、第一の功労者にはなんと源頼朝第二に源義仲、第三に源行家となったのです。
頼朝は鎌倉から一歩も出ず(富士川の合戦で平氏に勝利していますが、実際に平氏を破ったのは甲斐源氏武田信義軍)、後白河上皇には義仲を派遣したと報告した事によって第一の功労者になったのです。
義仲はすぐに平氏追討を命ぜられますが、義仲は動きませんでした。(約2ヶ月)
後白河上皇の独裁を止めさせ(後白河上皇の譲位、以仁王の遺児、北陸宮の即位)、武士の働きが認められる理想的な社会を実現するために動いていたようです。
頼朝も同じ事を考えていたようですが、頼朝は自分は動かず、人を動かして、互いに衝突させて利を得ようとしました。
その辺が人気がない理由ではないかと思われます。
義仲の朝廷工作はなかなかうまくいかず、後白河上皇は頼朝に義仲追討を命じ、延暦寺も義仲討伐の動きをした事によって義仲は追い詰められていきます。
義仲は、一旦は平氏追討に出陣しますが、馴れない海戦で大敗し、すぐに京に引き返します。
そして、後白河上皇が居る法住寺焼き討ち事件になります。
この段階で義仲は逆賊と呼ばれる事になるのです。
しかし、よくよく調べると後白河上皇側がまもなく上京する頼朝(義経)軍と共に、義仲を討伐しようと動いていた事がわかります。
焼き討ち後、実権を握った義仲は早速、朝廷改革に着手します。
が、京都に迫ってきた義経軍を迎え撃つため出陣する事になります。
この戦いは賊軍となるため、ほとんどの兵は逃げてしまいました。
義仲についてきたのは10騎に満たなかったと言われます。

ここで悲劇の幕は閉じられるのですが、この義仲の生涯をくまなく調べなければ、彼がどんなに素晴らしい理想を実現させようとしていたのか?
なかなか気づかないと感じました。
後白河上皇の独裁、平氏の横暴、そして、動かずして漁夫の利を得た頼朝。
欲望と欲望が絡みついた世の中で「義」に生きようとした源義仲
多くの偉人たちが擁護した気持ちがわかったような気がします。