幕末の混乱期に幕府と運命を共にした男、
美濃高須藩主松平義建の六男として誕生。
12歳の時、会津藩8代藩主、松平容敬(かたたか)(
この頃の時勢としては、18世紀末、
(文化露冦、あるいは、フヴォストフ事件と言う)
危機感を強めた幕府は、1807年、津軽、南部、秋田、
その翌年には、仙台、会津藩に出兵命令が下る。
会津藩は、樺太、利尻島、宗谷岬に半年間駐留した。
1810年から10年間、
会津から遠く財政的にも負担が大きすぎ、
アヘン戦争で清がイギリスに負け、幕府は大きな衝撃を受けた。
1847年幕府は、会津藩に安房、上総の警備を命じた。(
1852年父、松平容敬、病死。
9代藩主として松平容保が継ぐ。(18歳)
安政の大獄を断行した井伊直弼が桜田門外で暗殺され、
京都所司代、
そして狙われたのが京都町奉行所与力たち。
土佐、長州、薩摩の攘夷強行派に斬殺される。
他にも井伊直政に関係する人たちを捕らえ晒し者にしたり、
三条実美たち強硬な攘夷派の要請により、(
将軍家茂を護衛をするため、と称して浪士が集められ、
この集団を新撰組という。
新撰組の活躍で多少の効果はあったものの、
松平容保の活躍を認めていた(後ろ盾ともいえた)孝明天皇が急死すると、
慶応四年鳥羽伏見の戦いで負けた旧幕府軍。
大坂に居た徳川慶喜は、江戸に逃げ帰り、
松平容保も2月4日養子、喜徳(のぶのり)に家督を譲り、
戊辰戦争終結後、会津藩の懲罰は長州、木戸孝允に委ねられた。
木戸は、よほど会津藩を恨んでいたのか、
会津の領地は没収、青森、南部藩の東部、下北半島(約三万石)
領民約17000人が歩いて下北半島に移動したという。
前年が凶作だったのと、十分な旅費も支給されなかった事から、
三万石あれば17000人がギリギリ暮らしていけるはずですが、
私自身、戊辰戦争後、
今回、ブログのテーマを「松平容保」に決めて、
今までの私は、司馬遼太郎氏のファンで(いわゆる)
司馬遼太郎氏が生きていた時代と今では歴史の
視点が違ってきています。
様々な方が、様々な視点で歴史を調べ、謎の部分、
「勝てば官軍負ければ賊軍」
この言葉は、
関ケ原で負け組になり、中国地方120万石から日本海側の萩(
薩摩もしかりです。
彼らが作った明治政府と、その子孫たちは明治人の魂を受け継ぎ、
戦後、占領国軍に支配され、
「勝てば官軍負ければ賊軍」
の賊軍になりました。
戦争の愚かさ、残酷さを改めて知る機会になりました。