時代の波に翻弄された男……松平容保(かたもり)

幕末の混乱期に幕府と運命を共にした男、松平容保の人生を振り返ると共に、戊辰戦争その後の人生に焦点を当ててみたいと思います。

美濃高須藩松平義建の六男として誕生。
12歳の時、会津藩8代藩主、松平容敬(かたたか)(松平容敬松平義建の弟)の養子に出され、18歳で第9代藩主になる。

この頃の時勢としては、18世紀末、ロシア帝国が通商を求めて北方領土に来るようになり、幕府が拒否すると北方領土各地に恫喝、攻めてくるようになった。
(文化露冦、あるいは、フヴォストフ事件と言う)
危機感を強めた幕府は、1807年、津軽、南部、秋田、庄内の各藩に沿岸警備のため、出兵させる。
その翌年には、仙台、会津藩に出兵命令が下る。
会津藩は、樺太利尻島宗谷岬に半年間駐留した。

1810年から10年間、浦賀水道三浦半島の警備を担当させられる。
会津から遠く財政的にも負担が大きすぎ、北方領土と両方は無理だと抗議し、三浦半島の警備はなくなった。

アヘン戦争で清がイギリスに負け、幕府は大きな衝撃を受けた。
1847年幕府は、会津藩安房、上総の警備を命じた。(約6年続いた)
1852年父、松平容敬、病死。
9代藩主として松平容保が継ぐ。(18歳)

安政の大獄を断行した井伊直弼桜田門外で暗殺され、攘夷を叫ぶ志士たちが京都で暗躍し、 無秩序状態となっていった。
京都所司代酒井忠義は手に負えないと二条城に逃げ込んでしまう。
そして狙われたのが京都町奉行所与力たち。
土佐、長州、薩摩の攘夷強行派に斬殺される。
他にも井伊直政に関係する人たちを捕らえ晒し者にしたり、暗殺が繰り返され完全に警察機能が失われてしまう中、越前藩主、松平春嶽の再三再四の強い要請により、松平容保京都守護職として入京する事になる。

三条実美たち強硬な攘夷派の要請により、(幕府の方針を説明するため)将軍、徳川家茂が上洛する事になる。
将軍家茂を護衛をするため、と称して浪士が集められ、将軍に先だって上洛し、京都守護職松平容保預かりとして京都の警備を担当する事になる。
この集団を新撰組という。
新撰組の活躍で多少の効果はあったものの、尊攘派の暴走は抑えきれなかった。
松平容保の活躍を認めていた(後ろ盾ともいえた)孝明天皇が急死すると、抑止の利かない集団と化した薩長の志士に押され、特に長州は(八・一八の政変、蛤御門の変、長州征伐などで、会津藩に苦しめられたと逆恨みしていた)会津藩に大きな怨みを持ち、追い込んできた。
慶応四年鳥羽伏見の戦いで負けた旧幕府軍
大坂に居た徳川慶喜は、江戸に逃げ帰り、2月12日上野寛永寺に入り蟄居。
松平容保も2月4日養子、喜徳(のぶのり)に家督を譲り、2月16日江戸藩邸から会津に帰り、鶴ケ城別邸、御薬園に入り恭順謹慎。

戊辰戦争終結後、会津藩の懲罰は長州、木戸孝允に委ねられた。
木戸は、よほど会津藩を恨んでいたのか、かなり酷い懲罰を下します。
会津の領地は没収、青森、南部藩の東部、下北半島(約三万石)に領地替えになる。
領民約17000人が歩いて下北半島に移動したという。
前年が凶作だったのと、十分な旅費も支給されなかった事から、病死する人も居たという。
三万石あれば17000人がギリギリ暮らしていけるはずですが、実際には下北半島は痩せた土地で七千石ぐらいしか取れず、極寒の中、かなりの人が餓死し、飢餓に苦しんだという。

私自身、戊辰戦争後、会津藩が受けた仕打ちというのを知っていたが、あまり幕末から明治維新の歴史に興味が湧かず、詳しく勉強してきませんでした。
今回、ブログのテーマを「松平容保」に決めて、他の方のブログや作家の鈴木荘一氏の著作を読ませてもらいました
今までの私は、司馬遼太郎氏のファンで(いわゆる)司馬史観井沢元彦氏の「逆説の日本史」しか知らない単なる歴史好きだった事に、改めて気付かされました。
司馬遼太郎氏が生きていた時代と今では歴史の
視点が違ってきています。
様々な方が、様々な視点で歴史を調べ、謎の部分、闇の部分を探ろうとしています。

「勝てば官軍負ければ賊軍」

この言葉は、旧幕府軍を徹底的に叩きのめした西郷隆盛が日頃使っていたとか、あるいは明治の政治家、大江卓が詠んだ漢詩から生まれたとも言われてます。

関ケ原で負け組になり、中国地方120万石から日本海側の萩(30万石)に押し込められた毛利家は、憎き徳川、打倒徳川!を誓い続け、約270年後、関ケ原の恨みを晴らしたと言えます。
薩摩もしかりです。
彼らが作った明治政府と、その子孫たちは明治人の魂を受け継ぎ、中国、アメリカに無謀な戦争を仕掛け、日本を滅亡の危機に曝します。
戦後、占領国軍に支配され、
「勝てば官軍負ければ賊軍」
の賊軍になりました。

戦争の愚かさ、残酷さを改めて知る機会になりました。