会津と共に生きた男 … 斉藤一(はじめ)

斉藤一と言えば新撰組三番隊長として知られている人ですが、新撰組無き後の人生もドラマチックなので、今回とりあげてみたいと思います。

1845年播磨国に生まれたという。
江戸に出て、旗本の足軽になったというからそれなりにお金は持っていたと思われる。
(江戸時代の後期には、お金があれば武士になれたのです)
19歳の時、喧嘩で旗本を切ってしまい、父の友人で京都で剣術道場をやっていた人に匿ってもらう事になる
将軍、徳川家茂の護衛と称して上洛した浪士隊が会津藩に配属となり、新撰組命名された時に隊士募集があり、その時に斉藤は入隊したと思われる。
剣術の腕前はかなりのもので、京都の情勢、江戸の情勢にも詳しい斉藤は入隊当初から優遇された。
途中入隊であるにも関わらず、三番隊長に選ばれたというのは、それだけ実力が認められていたといえるだろう。
よく話題になるのが、新撰組の中で誰が一番強いのか?だが、一般的には、沖田総司、あるいは永倉新八というのが相場だ。
しかし新撰組生き残りの永倉新八は、斉藤一が一番だったと証言している。

斉藤は、池田屋事件新撰組幹部粛清など重要な事件の実行者として腕を振るっている。

途中入隊で幹部になった伊東甲子太郎が、隊を割って「御陵衛士を結成した時、斉藤も参加している。
(実は、スパイとして参加していたらしい)
「油小路の変」で伊東らが粛清されると、斉藤は新撰組に復帰している。

坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺された時、犯人として疑われたのが紀州の三浦休太郎だった。
海援隊の隊士らに狙われると予想した三浦は新撰組に護衛を依頼している。
そして、実際に事件は起き(天満屋事件)、この時、警護を担当したのも斉藤だった。

大政奉還され、鳥羽・伏見の戦い、その後の甲州勝沼の戦いにも、斉藤は旧幕府軍に参加している。
下総国、流山で近藤勇が投降した時、斉藤は新撰組を離れ、会津に向かった。

会津戦争の時には、最後の最後まで会津軍として戦いに参加している。
彼が何を思って、会津と運命を共にしようとしたのか?
こればっかりは本人に聞いてみないとわからない。
会津藩が降参した後も斉藤は抵抗を続けたが、松平容保の使者による説得により、投降したという。
会津藩処分により、下北半島への移住にも会津藩士として従っている。

会津藩重臣の娘と結婚するが離婚。
しかし、再度、会津藩士の娘と結婚したという。
あくまでも旧会津藩士として生きる道を選んだのだ。
この時、彼は「藤田五郎」と改名している。

明治七年、東京に移住し、警視庁に入る事が出来た。
警察官になったのだ。
そして、三年後に起きた西南戦争に警察官として従軍し、活躍した。
西南戦争では、あの西郷隆盛が朝敵になり、警察官として従軍した多くの旧会津藩士たちが官軍となったのだ。
時代の流れとはいえ、運命とはわからないものである。

同じ元新撰組の生き残りである永倉新八は、明治維新後、各地で新撰組の暴露話をしたという(本も出版している)
が、斉藤一藤田五郎)は一切、新撰組の話はしなかったという。
新撰組三番隊長斉藤一は死んで、藤田五郎として生きたのだろう。

警視庁退職後は、剣術指南役として各地で後進の指導に当たったという。
大正四年、71歳で亡くなる。
お墓は、会津若松にあるという。