京都に影響を与えた人物   その4

豊臣秀吉


尾張国中村の百姓の子として産まれた人が天下人となった。
日本一のいや、世界一のサクセスストーリーの主人公ではないでしょうか。
関西では「太閤さん」と気軽に呼ばれる人気者です。
秀吉と言えば、大阪城を思い浮かべる人も多いかと思いますが、勤皇家である秀吉は京都の街も大事にしてくれてます。
そして、住みやすいように大改造しています。
碁盤の目状の街割りを、より生活しやすいように短冊形(南北の道路を増やした)にしたり、御土居(おどい)と呼ばれる堤防のようなモノで都の周りを取り囲んで、周囲から攻め込まれないようにしています。
「都」を南へ行った伏見の丘陵地に城(伏見城)を築きます。
この時、南側を流れる宇治川の流れを変え、川の周囲にあった巨椋池おぐらいけ)の形を変えるという大工事を敢行しています。
城の周りを整備し、城下町を造り今の伏見の街の原形を造っています。
巨椋池は、昭和初期に埋め立てられ現存していません)
そして、晩年には、茶々姫のために淀の地に城を築きましたが、残念ながら秀吉が造ったモノは江戸時代初期に廃城となり、何も残ってません。
北野の大茶会、醍醐の花見など、都とその周辺で華やかな催しを開くなど、都人を楽しませる粋な文化人でもあった太閤さん。
彼の死後、天下を取ったのは徳川家康でした。
彼が伏見城で将軍宣下を受けて行なったのは、「都」の中に二条城の建築(権威付け)と、秀吉が解散させた紀州根来寺を(秀吉が建てた)方広寺のすぐ横に再建させたり、秀吉が再建させた本願寺の横にもう一つの本願寺を再建させたり…(秀吉の行為の否定)
そして秀吉の遺産の破壊。
御土居方広寺の廃棄、伏見城、淀城、大阪城の建て替え、そして秀吉のお墓まで徹底的に破壊するなど、そこまでするか?と言いたくなるほど秀吉の足跡を消し去ろうとしました。
逆に言えば、そこまでしないと秀吉を越える事が出来なかったのでしょう。
それぐらい太閤さんの遺産は大きかった事がわかります。