「田辺朔郎(さくろう)」
この名前を見て、ピンと来た人は相当な京都通でしょう。
明治維新後、廃藩置県により京都府が誕生する。
第二代京都府知事、槙村正直が全国に先駆けて小学校や外国語学校などを作って退任した後、第三代知事に就任したのが北垣国道。
明治天皇、そしてほとんどの公家たちが東京へ移って行かれ、京都の街が空洞化が進んでいきました。
就任した北垣知事は、京都の荒廃を食い止め発展に繋げるために何をすべきか?を考えた。
そして、出した答えが琵琶湖疏水事業と内国勧業博覧会(第四回内国勧業博覧会、平安遷都千百年を記念して行われた)の開催でした。
琵琶湖疏水事業とは、琵琶湖の水を京都に引いてきて農業用水、飲料水にしようという計画です。
この大事業を、当時、東京工部大学校を卒業したばかりの田辺朔郎に託す事にしたのです。
当時、日本人だけの技術力では無理だと思われた大事業を大学校を卒業したばかりの男に任せるというのは無謀に思われました。
このあたりは、北垣知事の英断というしかないでしょう。
滋賀(琵琶湖の水がなくなってしまう)、京都(琵琶湖の水が溢れて水浸しになる、工事費が膨大で府民の税金負担が増える)、大阪(淀川下流で水が溢れて水害になる)と心配する声が出て、大反対が起きることになる。
この工事の計画中、アメリカで世界初の水力発電所が出来たというニュースを聞き、田辺は早速アメリカに視察に出掛けた。
そして、日本でも出来ると判断し帰国。
測量の結果、琵琶湖の水面と京都市街地は約100メートル差がある事がわかる。
水力発電に十分な落差である事を確認し、設計し直し、北垣知事と共に住人たちの説得と、工事の推進を図る。
約5年の歳月と延べ400万人を動員して工事は完成。
これにより、世界で二番目の水力発電所と、琵琶湖から京都への水運、農業用水、上水道が完成する事になる。
この恩恵は、今を生きる京都の人たちも受け続けている。
水力発電は今でも稼働していて、約600世帯の電力を賄っているし
蹴上のインクライン、南禅寺の水路閣などは観光地としても賑わっている。
田辺は、この後、北海道開拓事業で、鉄道敷設を完成させる。
その後も(旧)陸軍の要請でシベリア鉄道の秘密調査の役目を果たす。
京都に戻って、京都帝国大学で教授をしながら、下関海底トンネル、小田原電鉄計画にも尽力したという。