京都の基本の「キ」

改めて書くまでもないかもしれませんが、「京都」を理解するための基本的な部分を書いてみます。

桓武天皇平城京を棄て、長岡京を経て平安京を造営するに至ったのは以前書いた通りですが平安京造営の決め手となったのが、「四神相応の地」
北(玄武)に山(船岡山)、東(青龍)に大河(鴨川)、南(朱雀)に湖沼(今は無き巨椋池)、西(白虎)に大道(山陰道があり
四神相応の思想に適した地であった。

北に天皇がおられる宮殿(御所)があり、天皇から見て左側が左京、右側が右京と呼ぶ。
御所から南に向かって幅、約100メートルの 朱雀大路が通っていたという。
これは、風水でいう「気」を通す役割があったと言われています。
朱雀大路の南端には羅城門(らじょうもん)があり、その両端の東に東寺、西に西寺が置かれた。

時代の変化と共に羅城門は崩壊し再建される事はなかったし、西寺も謎の火事で焼失。
これも再建されず現在に至っている。

右京の土地は湿地帯(水害や疫病の発生等)で大変住みづらい所だったようで、だんだんと人の流れは左京の方に集まるようになっていく。
東端が鴨川だったが人口が増えていったせいで鴨川の東にも人が住みはじめ市街地が東に広がっていく事になる。
平安京が出来た当初、鴨川から東はもう「都」ではなかった。
鴨川を渡った東山一帯は葬送の地だったのだ。
(鳥辺野と呼ばれていた)
単刀直入に言えば、死体置き場だ。
東山には今もお墓が沢山並んでいる地域があり、山の頂上付近には、京都市の火葬場がある。
掘り返せば骨がゴロゴロ出てくるような所に、栄華を誇った平家一門の屋敷があったのだ。
この事実は、当時の平家一門の社会的地位を考える上で興味深い。
平家一門の棟梁、清盛は、右京の西南にも屋敷を構えていた。
右京の西南は、湿地帯で住みにくいにも関わらずだ。
その平家が滅亡し、源頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、平家一門の屋敷跡には、鎌倉幕府の京都における政庁、六波羅探題が置かれた。

鎌倉幕府を倒した足利尊氏は、後醍醐天皇との確執があったため、京都を離れて関東に居を構えるわけにいかず、京都の市街地に居を構えた。
三代義満の時、室町通りに屋敷を構えてから、足利幕府は室町幕府と呼ばれるようになる。
この頃から京の都は、右京左京ではなく、上京(かみぎょう)、下京(しもぎょう)と区分けされるようになる。
東西に通る四条通りを境に北を上京、南を下京とした。
京都でよく使われる「アガル、サガル」という 言い方は、この上京、下京から来ているという説がある。
他には、京都の街は北へ行けば行くほど土地が高い(高低差の高い)ので北へ行く事を上がる、南へ行く事を下がる、という説や
北には天皇がおられる御所があり、天皇がおられる方向(北)に行く事を上がる、その反対が下がる、という説がある。
今でも、天皇がおられる東京へ行く事を上京と言いますよね。
JR線でも東京方面に向かう電車を上り線、反対線を下り線と言います。
諸説ありますが、天皇(がおられる場所)を基準に考えたらわかりやすいのではないかな?と思ったりします。

武士が世の中を動かすようになり天皇の存在価値が下がってしまっても天皇は日本人の象徴であり続けました。
江戸に幕府が開かれ、政治経済の中心が江戸に移っても、京都の品物(名品)を江戸に送る事を「下りもの」と言いました。
「下りもの」は、名品の代名詞だったわけです。
逆の品物は、「下らない品物」だから、くだらん、の語源になったとか…
では何故京都の品物は名品なのか?
を考えると、そこにはやっぱり天皇がおられるからです。
天皇に献上するために職人たちが一生懸命に技を磨いて造るから名品が生まれるのだと考えられます。

その他、京都の街中で住所代わりに使われる言い方が、交差する東西の通り名と南北の通り名を言う言い方。
例えば 「四条河原町」 は
四条通りと河原町通りが交差する交差点を指します。
四条河原町下ル」 と言うと、四条河原町の交差点を南へ行くという意味になります。
四条河原町東入る」 と言うと、四条河原町の交差点を東へ行くという意味になります。

上ル(あがる)
下ル(さがる)
東入る(ひがしいる)
西入る(にしいる)

と読みます。
この言い方、実は昔々から使われていたわけではないそうです。
昭和40年代中頃から使われだしたと、何かの本で読んだ記憶がありますが…
京都で生活していく上での知恵が生んだモノでしょうか