「京都」に影響を与えた人物  その3

足利義満
室町幕府三代将軍。
室町幕府歴代将軍の中で一番強い権力を持った将軍と言ってもいいかと思います。
幕府を開いた祖父、尊氏、二代目で父、義詮は、三種の神器を持って吉野に逃れた後醍醐天皇南朝との戦いに明け暮れた上に内紛まで起こり、幕府を安定させられませんでした。
義満は11歳で将軍になりますが、まだ将軍職を担える年齢ではないため、細川頼之が補佐する事になります。
将軍就任後、すぐに御所の北西に執務所兼自宅を造営しますが、四季の花が咲き乱れ華やかだった事から
「花の御所」
と呼ばれるようになります。
場所が室町通りに面していたので以後、足利幕府の事を「室町幕府」と呼ばれるようになりました。
彼は有力武将の粛清を進め、自身の権力集中を計ると同時に、策略を用い見事、南北朝合一に成功します。
幕府運営が軌道に乗ると、西園寺家の別荘を譲り受け、舎利殿金閣)や庭を整備し迎賓館的なモノを造りました。
北山第(北山殿)と呼ばれ、北山文化の中心として使用されました。

明(中国)との勘合貿易で明の使者を迎え入れたりもしたようです。
他にも花の御所の東側(御所の北側)に相国寺を建立。(八角七重塔も建てた)
権力をほしいままにしました。
そんな彼の功績と言えば、大和の地で活動していた猿楽(申楽)の結崎座の観阿弥世阿弥親子の芸に惚れ込み、庇護した事でしょう。
世阿弥は生涯を賭けて、幽玄能へと進化させていく)これにより、猿楽は上流武家、公家たち御用達の芸能へと成長します。

この後、息子で四代将軍になった足利義持は、父への反発から世阿弥は冷遇されますが、六代足利義教の時代に再び猿楽は庇護され、江戸幕府の公式舞台芸能へと発展します。