幕末の京都で愛された女流芸術家、大田垣蓮月

男性ばかり取り上げてきたので、今回は京都で活躍した女性を取り上げてみます。
江戸時代後期、芸術の華を咲かせた女性、大田垣蓮月
歌人として「海人の苅藻」「蓮月集」という歌集があり、武芸、裁縫、舞、囲碁、そして作陶の世界でも「蓮月焼」は幕末の志士たちにも人気があったという。
しかし、その高い芸術家としての域に達するまでに幾多の苦難を味わっている。

1791年伊賀国上野城城代家老藤堂良聖の娘として生まれるが、生後10日で、京都知恩院の寺士、大田垣光古(てるひさ)の養女となる。名は誠(のぶ)
(京都の遊廓、三本木で生まれたとも言われている、いや、むしろ三本木の方が自然な流れだと思いますが)


少女期は、丹波亀山城で奥勤めをし、武芸に励んだという。
18歳で結婚し、三人の子を産むが三人共夭逝、夫の放蕩が理由で離婚。
33歳で再婚し、一人の子が生まれるが夫とは死別、知恩院で養父、光古と共に剃髪、仏門に入る。
蓮月と名乗る。
二年後に子供も7歳で病死。
4年後には養父が亡くなり、42歳で天涯孤独となる。

生活の糧を得るため、作陶を始める。
手捏ねの陶器に自詠の歌を刻んだ雅な「蓮月焼」が人気になる。
文人墨客との交流も盛んになり、和歌は上田秋成香川景樹に学び、小沢蘆庵に私淑したという。
他にも沢山の文人墨客との交流があり、幕末には志士たちとの交流もあったといわれる。
蓮月焼は大人気で、収入は多かったが、お金に執着心はなく、京都の街が飢饉に苦しんでいると奉行所に30両寄付したり、自費で丸太町通りに橋を懸けたりしたという。
木戸孝允も彼女の陶器や短冊を買いに来たらしい。

蓮月は、富岡鉄斎の幼少期に、彼を自宅で面倒を見ている。
鉄斎は蓮月の芸術の才能を肌で感じて育ったのだと思われる。
幕末期、京都の街が物騒になった時、特に熱心に政治活動はしなかったが、志士たちを助けたりした関係で身の危険を感じ、京都西賀茂の神光院の住職、和田月心の勧めで、神光院に間借りする事にし、晩年の10年を過ごす事になった。
これが引っ越し魔の最後の引っ越しとなる。
(彼女は生涯、30回以上引っ越しをしたという)

幕末の有名なエピソードがあります。
倒幕が成功し、鳥羽伏見の戦いで多くの血が流れ、西郷さん率いる官軍が江戸城へ攻め入ろうと京都を出発する直前、蓮月尼は薩摩藩士に頼み込み、西郷さんに一首の和歌を短冊に書き、自身の思いを伝えます。
(本当は直接、西郷さんに短冊を渡したかったようですが、さすがにそれは無理だったようです)

その歌は

「あだ見方勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」

この歌を読んで西郷さんが江戸城無血開城を決断したと言う人がいますが、さすがにそれは言い過ぎかなと思います。


明治8年 蓮月尼は85年の生涯を閉じます。
蓮月尼が住んでいた西賀茂村の人々は大いに嘆き悲しんだと言われます。
富岡鉄斎が描いた月と蓮の絵に自筆の辞世が記された風呂敷に包まれ、皆総出で棺を担ぎ、野辺送りしたそうです。

「ねがはくはのちの蓮の花のうへにくもらぬ月をみるよしもがな」