宗教都市京都について考えてみる

今回も
「京都」イコール宗教都市
という観点から、宗教都市京都について少し考えてみたいと思います。
桓武天皇平城京を捨て、長岡京造営を断念し、山城盆地に都を置いたのが平安京の始まりとされています。
この時、桓武天皇は「都」の中に東寺、西寺という官寺を建て、「都」の東北に位置する比叡山で修行していた最澄という僧に、国家鎮護のための寺を建てさせます。
延暦という元号の使用が認められ、延暦寺と名付けられました。
古くからある原始的な仏教を捨て、最澄が学んできた最新式の仏教で都を守らせようとしたのだろうと推測出来ます。
長岡京造営時、実の弟である早良親王を死に追いやりましたが、その後、実母、正室が突然亡くなったり、皇太子に任命した安殿親王(後の平城天皇が重い病気にかかるなど、不吉な事が続き、それが早良親王の祟りだとされたため、悩んだ末に出した答えが最先端の仏教に守られた「平安京」だった。
仏教だけでなく、山城の地は四神相応(北に玄武、東に青龍、南に朱雀、西に白虎)に守られた地であるという条件とも合致している。
その上、東西南北に磐座(いわくら)と呼ばれる大石を埋め、「都」を守る役割を与えている。
二重、三重の防御体制を整え、その「都」を平安京と名付けた。
(この時代、「言葉」は重要な役割を持っていた)
桓武天皇は即位したのが45歳と遅かったため、平安京を完全に整備出来ずに崩御している。
息子である平城天皇は、平安京が好きになれず多くの時間を旧都奈良で過ごしたため、孫の嵯峨天皇平安京を整備していく事になる。
この嵯峨天皇に寵愛され活躍したのが空海である。
空海は、仏教(密教)だけでなく、天文学、土木技術や書道(文化)など、唐(中国)の最先端仏教、技術、学問を身につけたスーパースターだった。
空海が「都」で活躍している間、延暦寺の高僧たちは、唐に渡り、最澄が学びきれなかった部分を学び、仏教の総合大学としての地位を高めていく。
そして、空海が「都」を出て、高野山を拠点に置くと、「都」では延暦寺の影響力が増大していき、政治にまで口をだすようになっていく。
上皇として絶大な力を持った白河上皇ですら、
自分の思いのままにならない三つの事柄(三不如意)の一つに、山法師(比叡山の僧)を挙げている。

白河上皇も手を焼くほどの勢力となった延暦寺だが、力を持った勢力は腐敗していく。
延暦寺も例に漏れず腐敗し、多くの僧が嘆き山を降りていった。
鎌倉時代、高僧たちが興した宗派の多くが(後に鎌倉新仏教と呼ばれる)本山(拠点)を京都に置こうとした。
延暦寺など有力寺院は猛反発した。

それまで一部の貴族や有力武将のためだけの仏教が、一般庶民にも開かれた仏教になり、仏教の影響力がより広がる事になる。
その後、織田信長による比叡山焼き討ちがあり、その信長の後継、豊臣秀吉紀州根来寺を解散させ、仏教寺院の力が削がれていき、徳川家康が天下人となり戦乱の世の終わりと共に、有力寺院の力は失われていく。
家康が貴族、武士、仏教寺院などを規制する法律を作って、仏教寺院を幕府が完全に管理するようになっため、京都が宗教都市としての力を弱めていくことになるのだ。