今回も
「京都」イコール宗教都市
という観点から、
桓武天皇が平城京を捨て、長岡京造営を断念し、
この時、桓武天皇は「都」の中に東寺、西寺という官寺を建て、「
延暦という元号の使用が認められ、延暦寺と名付けられました。
古くからある原始的な仏教を捨て、
長岡京造営時、実の弟である早良親王を死に追いやりましたが、
仏教だけでなく、山城の地は四神相応(北に玄武、東に青龍、
その上、東西南北に磐座(いわくら)と呼ばれる大石を埋め、「
二重、三重の防御体制を整え、その「都」を平安京と名付けた。
(この時代、「言葉」は重要な役割を持っていた)
桓武天皇は即位したのが45歳と遅かったため、
息子である平城天皇は、
この嵯峨天皇に寵愛され活躍したのが空海である。
空海は、仏教(密教)だけでなく、天文学、土木技術や書道(
空海が「都」で活躍している間、延暦寺の高僧たちは、唐に渡り、
そして、空海が「都」を出て、高野山を拠点に置くと、「都」
上皇として絶大な力を持った白河上皇ですら、
自分の思いのままにならない三つの事柄(三不如意)の一つに、
白河上皇も手を焼くほどの勢力となった延暦寺だが、力を持った勢力は腐敗していく。
延暦寺も例に漏れず腐敗し、多くの僧が嘆き山を降りていった。
鎌倉時代、高僧たちが興した宗派の多くが(
延暦寺など有力寺院は猛反発した。
それまで一部の貴族や有力武将のためだけの仏教が、
その後、織田信長による比叡山焼き討ちがあり、その信長の後継、
家康が貴族、武士、仏教寺院などを規制する法律を作って、