昨日のテロ事件から思う事をダラダラと…

昨日4月15日、仕事から帰り、妻から岸田首相が選挙演説中に爆発物が投げつけられる事件があった事を聞かされた。
またか?と思うと同時に、安全な国だと思っていた日本で、首脳が狙われる事件が二件起こった事がショックでした。
昨年の安倍氏の時は手製の散弾銃のような物で、今回も手製で、筒型の爆弾のような物だそうです。
ネット社会になり、いつでも何処でも自由に情報を得る事が出来るようになり、昔ながらの日本人特有の美徳というモノが失われてしまった結果、怒りを暴力で解決しようとする社会になりつつあるのかなと感じます。
一昔、いや二昔前までの忍耐強い日本人はみんな歳をとってしまいました
今の若者は苦労せず欲しいものを獲ようとします。
若者に我慢しろ、と言っても無駄なのかもしれません。
ただ、気に入らない人は排除するという単純で安易な考えを捨ててほしい。
やけっぱちにならず、幸せを感じられる方法を考えてほしい。
ただただ平穏に時が刻まれていく事を願うのみです。

 

花見はいつ頃から始まったのか?

2023年、今年は桜の開花がかなり早く、沢山の方が花見をされている姿を見かけます。
歳を重ねるごとに花の美しさ、儚さを感じるようになりました。
沢山の花の写真を見ていて、ふと感じたのが
「日本人はいつ頃から花見をするようになったのか?」
調べてみると、平安時代以前は、梅の花が好まれたようです。
桜の花を鑑賞するようになったのは平安時代から…
ただ、花見を楽しんでいたのは貴族だけで、農民は五穀豊穣を願って宗教上の祭事として、花を愛でていたという。
決して花見を楽しんでいたわけではありませんでした。


鎌倉時代になって、武士も町人も徐々に花見を楽しむようになったといいます。

広く一般的に庶民が花見を楽しむようになったのは江戸時代からで、江戸時代後期から明治にかけて品種改良が進んでいき、各地で花見が出来るようになったそうです。


「さくら」の語源…
大きく分けて三つあるといいます。

◎ 「咲く」に複数を表す「ら」をつけたもの

    わりと単純ですね。


◎ 富士山頂から「桜の種」を蒔いて花を咲かせたとされる「コノハナサクヤヒメ」(神様の名前)の「サクヤ」から「サクラ」になったという説

  ちょっと苦しいかな…


◎ 水田耕作と共に始まった農工儀礼によるもの。 「さ」は稲の神様を表し、「くら」は依代を表します。

  これはちょっとわかりづらいかな?

稲の神様は春山からやってきて桜の木に宿ります。人々は桜に酒や肴を供え、稲の神様を迎えました。これが花見の始まりという説があるそうです。

「田打ち桜、種まき桜、苗代桜」という言葉があるように、桜は農作業の目安となってきたといいます。
咲く様子、散る様子、で稲の実りを占ったといいます。

花見は、酒の肴…
そう思っていた私は恥ずかしい限りです。

会津と共に生きた男 … 斉藤一(はじめ)

斉藤一と言えば新撰組三番隊長として知られている人ですが、新撰組無き後の人生もドラマチックなので、今回とりあげてみたいと思います。

1845年播磨国に生まれたという。
江戸に出て、旗本の足軽になったというからそれなりにお金は持っていたと思われる。
(江戸時代の後期には、お金があれば武士になれたのです)
19歳の時、喧嘩で旗本を切ってしまい、父の友人で京都で剣術道場をやっていた人に匿ってもらう事になる
将軍、徳川家茂の護衛と称して上洛した浪士隊が会津藩に配属となり、新撰組命名された時に隊士募集があり、その時に斉藤は入隊したと思われる。
剣術の腕前はかなりのもので、京都の情勢、江戸の情勢にも詳しい斉藤は入隊当初から優遇された。
途中入隊であるにも関わらず、三番隊長に選ばれたというのは、それだけ実力が認められていたといえるだろう。
よく話題になるのが、新撰組の中で誰が一番強いのか?だが、一般的には、沖田総司、あるいは永倉新八というのが相場だ。
しかし新撰組生き残りの永倉新八は、斉藤一が一番だったと証言している。

斉藤は、池田屋事件新撰組幹部粛清など重要な事件の実行者として腕を振るっている。

途中入隊で幹部になった伊東甲子太郎が、隊を割って「御陵衛士を結成した時、斉藤も参加している。
(実は、スパイとして参加していたらしい)
「油小路の変」で伊東らが粛清されると、斉藤は新撰組に復帰している。

坂本龍馬中岡慎太郎が暗殺された時、犯人として疑われたのが紀州の三浦休太郎だった。
海援隊の隊士らに狙われると予想した三浦は新撰組に護衛を依頼している。
そして、実際に事件は起き(天満屋事件)、この時、警護を担当したのも斉藤だった。

大政奉還され、鳥羽・伏見の戦い、その後の甲州勝沼の戦いにも、斉藤は旧幕府軍に参加している。
下総国、流山で近藤勇が投降した時、斉藤は新撰組を離れ、会津に向かった。

会津戦争の時には、最後の最後まで会津軍として戦いに参加している。
彼が何を思って、会津と運命を共にしようとしたのか?
こればっかりは本人に聞いてみないとわからない。
会津藩が降参した後も斉藤は抵抗を続けたが、松平容保の使者による説得により、投降したという。
会津藩処分により、下北半島への移住にも会津藩士として従っている。

会津藩重臣の娘と結婚するが離婚。
しかし、再度、会津藩士の娘と結婚したという。
あくまでも旧会津藩士として生きる道を選んだのだ。
この時、彼は「藤田五郎」と改名している。

明治七年、東京に移住し、警視庁に入る事が出来た。
警察官になったのだ。
そして、三年後に起きた西南戦争に警察官として従軍し、活躍した。
西南戦争では、あの西郷隆盛が朝敵になり、警察官として従軍した多くの旧会津藩士たちが官軍となったのだ。
時代の流れとはいえ、運命とはわからないものである。

同じ元新撰組の生き残りである永倉新八は、明治維新後、各地で新撰組の暴露話をしたという(本も出版している)
が、斉藤一藤田五郎)は一切、新撰組の話はしなかったという。
新撰組三番隊長斉藤一は死んで、藤田五郎として生きたのだろう。

警視庁退職後は、剣術指南役として各地で後進の指導に当たったという。
大正四年、71歳で亡くなる。
お墓は、会津若松にあるという。

時代の波に翻弄された男……松平容保(かたもり)

幕末の混乱期に幕府と運命を共にした男、松平容保の人生を振り返ると共に、戊辰戦争その後の人生に焦点を当ててみたいと思います。

美濃高須藩松平義建の六男として誕生。
12歳の時、会津藩8代藩主、松平容敬(かたたか)(松平容敬松平義建の弟)の養子に出され、18歳で第9代藩主になる。

この頃の時勢としては、18世紀末、ロシア帝国が通商を求めて北方領土に来るようになり、幕府が拒否すると北方領土各地に恫喝、攻めてくるようになった。
(文化露冦、あるいは、フヴォストフ事件と言う)
危機感を強めた幕府は、1807年、津軽、南部、秋田、庄内の各藩に沿岸警備のため、出兵させる。
その翌年には、仙台、会津藩に出兵命令が下る。
会津藩は、樺太利尻島宗谷岬に半年間駐留した。

1810年から10年間、浦賀水道三浦半島の警備を担当させられる。
会津から遠く財政的にも負担が大きすぎ、北方領土と両方は無理だと抗議し、三浦半島の警備はなくなった。

アヘン戦争で清がイギリスに負け、幕府は大きな衝撃を受けた。
1847年幕府は、会津藩安房、上総の警備を命じた。(約6年続いた)
1852年父、松平容敬、病死。
9代藩主として松平容保が継ぐ。(18歳)

安政の大獄を断行した井伊直弼桜田門外で暗殺され、攘夷を叫ぶ志士たちが京都で暗躍し、 無秩序状態となっていった。
京都所司代酒井忠義は手に負えないと二条城に逃げ込んでしまう。
そして狙われたのが京都町奉行所与力たち。
土佐、長州、薩摩の攘夷強行派に斬殺される。
他にも井伊直政に関係する人たちを捕らえ晒し者にしたり、暗殺が繰り返され完全に警察機能が失われてしまう中、越前藩主、松平春嶽の再三再四の強い要請により、松平容保京都守護職として入京する事になる。

三条実美たち強硬な攘夷派の要請により、(幕府の方針を説明するため)将軍、徳川家茂が上洛する事になる。
将軍家茂を護衛をするため、と称して浪士が集められ、将軍に先だって上洛し、京都守護職松平容保預かりとして京都の警備を担当する事になる。
この集団を新撰組という。
新撰組の活躍で多少の効果はあったものの、尊攘派の暴走は抑えきれなかった。
松平容保の活躍を認めていた(後ろ盾ともいえた)孝明天皇が急死すると、抑止の利かない集団と化した薩長の志士に押され、特に長州は(八・一八の政変、蛤御門の変、長州征伐などで、会津藩に苦しめられたと逆恨みしていた)会津藩に大きな怨みを持ち、追い込んできた。
慶応四年鳥羽伏見の戦いで負けた旧幕府軍
大坂に居た徳川慶喜は、江戸に逃げ帰り、2月12日上野寛永寺に入り蟄居。
松平容保も2月4日養子、喜徳(のぶのり)に家督を譲り、2月16日江戸藩邸から会津に帰り、鶴ケ城別邸、御薬園に入り恭順謹慎。

戊辰戦争終結後、会津藩の懲罰は長州、木戸孝允に委ねられた。
木戸は、よほど会津藩を恨んでいたのか、かなり酷い懲罰を下します。
会津の領地は没収、青森、南部藩の東部、下北半島(約三万石)に領地替えになる。
領民約17000人が歩いて下北半島に移動したという。
前年が凶作だったのと、十分な旅費も支給されなかった事から、病死する人も居たという。
三万石あれば17000人がギリギリ暮らしていけるはずですが、実際には下北半島は痩せた土地で七千石ぐらいしか取れず、極寒の中、かなりの人が餓死し、飢餓に苦しんだという。

私自身、戊辰戦争後、会津藩が受けた仕打ちというのを知っていたが、あまり幕末から明治維新の歴史に興味が湧かず、詳しく勉強してきませんでした。
今回、ブログのテーマを「松平容保」に決めて、他の方のブログや作家の鈴木荘一氏の著作を読ませてもらいました
今までの私は、司馬遼太郎氏のファンで(いわゆる)司馬史観井沢元彦氏の「逆説の日本史」しか知らない単なる歴史好きだった事に、改めて気付かされました。
司馬遼太郎氏が生きていた時代と今では歴史の
視点が違ってきています。
様々な方が、様々な視点で歴史を調べ、謎の部分、闇の部分を探ろうとしています。

「勝てば官軍負ければ賊軍」

この言葉は、旧幕府軍を徹底的に叩きのめした西郷隆盛が日頃使っていたとか、あるいは明治の政治家、大江卓が詠んだ漢詩から生まれたとも言われてます。

関ケ原で負け組になり、中国地方120万石から日本海側の萩(30万石)に押し込められた毛利家は、憎き徳川、打倒徳川!を誓い続け、約270年後、関ケ原の恨みを晴らしたと言えます。
薩摩もしかりです。
彼らが作った明治政府と、その子孫たちは明治人の魂を受け継ぎ、中国、アメリカに無謀な戦争を仕掛け、日本を滅亡の危機に曝します。
戦後、占領国軍に支配され、
「勝てば官軍負ければ賊軍」
の賊軍になりました。

戦争の愚かさ、残酷さを改めて知る機会になりました。

 

幕末の京都で愛された女流芸術家、大田垣蓮月

男性ばかり取り上げてきたので、今回は京都で活躍した女性を取り上げてみます。
江戸時代後期、芸術の華を咲かせた女性、大田垣蓮月
歌人として「海人の苅藻」「蓮月集」という歌集があり、武芸、裁縫、舞、囲碁、そして作陶の世界でも「蓮月焼」は幕末の志士たちにも人気があったという。
しかし、その高い芸術家としての域に達するまでに幾多の苦難を味わっている。

1791年伊賀国上野城城代家老藤堂良聖の娘として生まれるが、生後10日で、京都知恩院の寺士、大田垣光古(てるひさ)の養女となる。名は誠(のぶ)
(京都の遊廓、三本木で生まれたとも言われている、いや、むしろ三本木の方が自然な流れだと思いますが)


少女期は、丹波亀山城で奥勤めをし、武芸に励んだという。
18歳で結婚し、三人の子を産むが三人共夭逝、夫の放蕩が理由で離婚。
33歳で再婚し、一人の子が生まれるが夫とは死別、知恩院で養父、光古と共に剃髪、仏門に入る。
蓮月と名乗る。
二年後に子供も7歳で病死。
4年後には養父が亡くなり、42歳で天涯孤独となる。

生活の糧を得るため、作陶を始める。
手捏ねの陶器に自詠の歌を刻んだ雅な「蓮月焼」が人気になる。
文人墨客との交流も盛んになり、和歌は上田秋成香川景樹に学び、小沢蘆庵に私淑したという。
他にも沢山の文人墨客との交流があり、幕末には志士たちとの交流もあったといわれる。
蓮月焼は大人気で、収入は多かったが、お金に執着心はなく、京都の街が飢饉に苦しんでいると奉行所に30両寄付したり、自費で丸太町通りに橋を懸けたりしたという。
木戸孝允も彼女の陶器や短冊を買いに来たらしい。

蓮月は、富岡鉄斎の幼少期に、彼を自宅で面倒を見ている。
鉄斎は蓮月の芸術の才能を肌で感じて育ったのだと思われる。
幕末期、京都の街が物騒になった時、特に熱心に政治活動はしなかったが、志士たちを助けたりした関係で身の危険を感じ、京都西賀茂の神光院の住職、和田月心の勧めで、神光院に間借りする事にし、晩年の10年を過ごす事になった。
これが引っ越し魔の最後の引っ越しとなる。
(彼女は生涯、30回以上引っ越しをしたという)

幕末の有名なエピソードがあります。
倒幕が成功し、鳥羽伏見の戦いで多くの血が流れ、西郷さん率いる官軍が江戸城へ攻め入ろうと京都を出発する直前、蓮月尼は薩摩藩士に頼み込み、西郷さんに一首の和歌を短冊に書き、自身の思いを伝えます。
(本当は直接、西郷さんに短冊を渡したかったようですが、さすがにそれは無理だったようです)

その歌は

「あだ見方勝つも負くるも哀れなり 同じ御国の人と思へば」

この歌を読んで西郷さんが江戸城無血開城を決断したと言う人がいますが、さすがにそれは言い過ぎかなと思います。


明治8年 蓮月尼は85年の生涯を閉じます。
蓮月尼が住んでいた西賀茂村の人々は大いに嘆き悲しんだと言われます。
富岡鉄斎が描いた月と蓮の絵に自筆の辞世が記された風呂敷に包まれ、皆総出で棺を担ぎ、野辺送りしたそうです。

「ねがはくはのちの蓮の花のうへにくもらぬ月をみるよしもがな」

源義経伝説

数々の伝説を持っていると言えばなんといっても牛若丸こと源義経ではないでしょうか。
鞍馬の山中で修行し、五条大橋で弁慶と出会い、平家を打ち破り京都に凱旋。
兄、頼朝に叱責され鎌倉に入れず奥州平泉に匿われるが、頼朝の追手に攻められ自害。
その後、約200年経って「義経記」が書かれて人気が出、謡曲幸若舞、歌舞伎などで義経物の作品の中で伝説が生まれた。


伝説 その1
義経が生まれた年に父、源義朝平治の乱で破れ敗死し、兄頼朝は伊豆に流され、義経鞍馬寺で僧として育てられる事になる。
ここで天狗と出会い、鞍馬の山の中を飛び回り体を鍛え、兵法を学んだ、という。


伝説 その2
鞍馬寺で、(天狗ではなく)鬼一法眼の娘と出会い、伝家の兵書「六韜」「三略」を盗み出して学んだとも言われる。


伝説 その3(これが一番有名かも)
いわゆる「橋弁慶伝説」
五条大橋武蔵坊弁慶と出会い、大男の弁慶相手に簡単に勝ってしまう。
実は、最初に出会ったのは五条天神社だとも言われているし、牛若丸が生まれた地の近くにある御所橋だという説もある。
その後、再び出会い、清水寺の舞台で決闘をし、完敗した弁慶が牛若丸に生涯忠誠を誓う。
この伝説は、弁慶が太刀を1000本奪う悲願を立て1000本目で義経と対戦し破れて義経の家来になるというものですが、1000本の太刀を奪うのが義経だという説もあります。



伝説 その4
平家討伐に向かい、摂津一の谷鵯越(ひよどりごえ)で峻険な坂を馬で駈けおり平家の背後をつく作戦で見事成功させた「坂下し伝説」


伝説 その5
檀ノ浦の海戦で敵に追われた時、次々と八艘の舟に飛び移り難を逃れたという「八艘飛び伝説」


伝説 その6
平家を滅亡に追いやり、都に凱旋した義経でしたが、独断で朝廷から任官するなど頼朝の不興を買い、弁解すら許されず追放の身となる。
頼朝は追討の手を緩めず、トコトンまで追い詰め、奥州平泉に逃れた義経を自害にまで追い込みました。
しかし、義経は死なずに蝦夷地まで逃げたという義経北方伝説。


伝説 その7
北方伝説の延長として、蝦夷地から海を越え大陸に渡り、ジンギスカンになったという「義経ジンギスカン説」


伝説 その8
以仁王の令旨で挙兵した源氏の中で、近江で挙兵した山本義経という人物がいる。
元々は近江源氏で、正式には源義経であるため、義経二人説がある。


伝説から生まれた言葉

判官贔屓(ほうがんびいき、はんがんびいき)」という言葉は、義経が大活躍したにも関わらず、些細な事で叱責され非業の死を遂げた義経の生涯は同情を呼び、このような心情を指して「判官贔屓」と言われるようになった。
(判官とは義経が朝廷からもらった役職が「判官」と言われる役職名だった)


鬼一方眼の娘と盗んだ「六韜」のうちの一つ「虎巻」を読んで平家に勝ったので、これを読むと「勝てる!」となり、物事の必勝法を「虎の巻」と言うようになった。


数奇な運命を背負った義経ですが
奇しくも木曽義仲と同じく、幼少の時、父を亡くし、捕らわれの身となり、義仲と同じく31歳で亡くなっている。
義経は義仲より5歳年下でした。)

 

木曽義仲(源義仲)の魅力に迫る

平安時代の終わりに、「都」で花咲き、すぐに散ったという人生を送った人物…
源義仲木曽義仲)。
田舎で育ったため無位無冠。
前半生はほとんど謎とされています。
以仁王の令旨に呼応し、打倒平氏を掲げて旗揚げしたのが27歳の時。
倶利伽羅峠の戦いで、少ない兵力で平氏の大軍を撃破し、無血で入京する。
しかし、入京してからの義仲軍は、都の中で略奪行為、乱暴狼藉を繰り返してしまう。
(この年、京都は大飢饉の真っ最中だった)
そのため、都の人たちから嫌われた。
さらに皇位継承問題に関して口出しをした事
で、後白河法皇と対立が激化。
後白河法皇は、源頼朝に義仲討伐の院宣を出すに至る。
頼朝が派遣した源義経、範頼軍に追われ、近江国粟津で最後を迎える。

私が今まで知っていた一般的な義仲の略歴を書いてみました。
時の大勢力である平家を都から追い出した。
ここまでは良かったが、その後が冴えない人生だった。
今まではそう思っていました。
しかし、義仲の本当の凄さを知っていた偉人が沢山居たのです。
まず、俳聖、松尾芭蕉は、義仲の大ファンで
「さて骸は木曽塚に送るべし」
と弟子たちに遺言し、亡くなったというのは結構有名な話。
義仲のお墓の隣に芭蕉のお墓があるのは、実際に義仲寺に行ったので私も知っていました。
しかし、他にも義仲ファンが沢山居たのは知りませんでした。
まず、芭蕉の弟子、各務支考(かがみしこう)。これは芭蕉に影響されたのだと想像出来ますね。
江戸時代の儒学者、木下順庵、その弟子筋になる新井白石も義仲擁護論者だし、加賀藩の学者、富田景周。
明治時代の信濃毎日新聞山路愛山京都帝国大学歴史学者三浦周行。
そして、作家の芥川龍之介は、18歳の時「義仲論」という義仲擁護の論文を書いているのです。
かなり義仲を研究したようで、三万字にも及ぶ大論文を書いています。
同時代に源義経というヒーローが居たにも関わらず、なぜ何処にそんな魅力を義仲に感じたのか?
それを知りたいと思いました。


今まで義仲にはあまり興味が湧かず、深く知ろうとは思わなかったのだが、イロイロ調べてみると、義仲は、どうやら源氏一族の長者争いに巻き込まれた人生だった。
ライバルになったのは、祖父を同じくとした従兄弟の頼朝。
頼朝は嫡流の血筋になります。
14歳の時、父(義朝)が処刑され、頼朝も処刑されかけた所、助命され伊豆へ流された。
義仲は武蔵国に生まれるが(頼朝より7歳年下)わずか2歳の時、頼朝の兄、源義平に父(義賢)を殺される。

義仲は畠山能重に助け出され、木曽の中原兼遠に育てられる事になる。
共に打倒平氏で挙兵するまでの間の人生は謎とされている。
私は、この謎の月日をどう過ごしたか?によって成功者となったか否かの大きな分岐点となったのではないかと考えた。

以仁王の令旨に呼応してまず動いたのは頼朝だったが、先に成果を上げたのは義仲だった。
少ない兵力で平氏の大軍を破ったのは大金星である。
その後、勢いに乗って平氏を追ったのでなく、延暦寺の勢力を見方につけた事によって、平氏は都から出ていかざるを得なくした。
この時点で、義仲が政治のイロハを理解していた事がわかる。
ただ、入京する前後に略奪、乱暴狼藉行為があったのは確かなようだ。
しかし、これは義仲軍本隊ではなく、同行していた源行家の軍の仕業だったようです。
乱暴狼藉は、2、3日で鎮められた。
義仲軍が入京してすぐに後白河上皇に呼ばれ、褒美が与えられますが、第一の功労者にはなんと源頼朝第二に源義仲、第三に源行家となったのです。
頼朝は鎌倉から一歩も出ず(富士川の合戦で平氏に勝利していますが、実際に平氏を破ったのは甲斐源氏武田信義軍)、後白河上皇には義仲を派遣したと報告した事によって第一の功労者になったのです。
義仲はすぐに平氏追討を命ぜられますが、義仲は動きませんでした。(約2ヶ月)
後白河上皇の独裁を止めさせ(後白河上皇の譲位、以仁王の遺児、北陸宮の即位)、武士の働きが認められる理想的な社会を実現するために動いていたようです。
頼朝も同じ事を考えていたようですが、頼朝は自分は動かず、人を動かして、互いに衝突させて利を得ようとしました。
その辺が人気がない理由ではないかと思われます。
義仲の朝廷工作はなかなかうまくいかず、後白河上皇は頼朝に義仲追討を命じ、延暦寺も義仲討伐の動きをした事によって義仲は追い詰められていきます。
義仲は、一旦は平氏追討に出陣しますが、馴れない海戦で大敗し、すぐに京に引き返します。
そして、後白河上皇が居る法住寺焼き討ち事件になります。
この段階で義仲は逆賊と呼ばれる事になるのです。
しかし、よくよく調べると後白河上皇側がまもなく上京する頼朝(義経)軍と共に、義仲を討伐しようと動いていた事がわかります。
焼き討ち後、実権を握った義仲は早速、朝廷改革に着手します。
が、京都に迫ってきた義経軍を迎え撃つため出陣する事になります。
この戦いは賊軍となるため、ほとんどの兵は逃げてしまいました。
義仲についてきたのは10騎に満たなかったと言われます。

ここで悲劇の幕は閉じられるのですが、この義仲の生涯をくまなく調べなければ、彼がどんなに素晴らしい理想を実現させようとしていたのか?
なかなか気づかないと感じました。
後白河上皇の独裁、平氏の横暴、そして、動かずして漁夫の利を得た頼朝。
欲望と欲望が絡みついた世の中で「義」に生きようとした源義仲
多くの偉人たちが擁護した気持ちがわかったような気がします。